私の名前は、佐川涼子。29歳。今は結婚3年目の専業主婦です。
 これから話すことは、2年前のある日、まだ新婚ほやほやだった私の身に突然おこった、驚くべき出来事についてです。
 信じられないかもしれませんが、これは本当のことなのです。
 もしかしたら、明日はあなたの身におこるかもしれません。
 そうならないことを願って…。

春の夜の夢

A Spring Night's Dream

「あなた、明日ハゲますね」
 白衣に身を包んだお医者さんは、カルテにちらりと目をやった後、冷たく私にそう宣告した。
「え…、うそでしょ?」
 私は思わず椅子から立ち上がりそうになった。
「いいえ、本当です」
 お医者さんは、無表情のまま。無機質な眼鏡の奥の目が、じっと私を見ている。
「で、でも…」
 昨日、急に抜け毛が増えたなぁと思って。休日の朝から、思い切って病院をたずねてみたというのに。
「どのくらいハゲるんですか?」
 思わず私はそうきいた。
「完全に。全部です」
 視界が真っ白になった気がした。

「そうか、そう言われたのか」
 どうやって家に帰ったのかはよく覚えていないけれど。家に帰った後、夫にようやく診察結果をうち明けることができた。
「私まだ27歳なのよ? なのに…ひどいわ」
 休日のお昼の軽いブランチ。パスタの最後の一巻きを口へ放り込みながら、私はそう言った。
「でも、仕方ないだろ?」
 二人分のカップに紅茶を注ぎながら、落ち着いた穏やかな口調でそういう夫。そんな夫に、私はまた腹が立った。
「仕方がないってどういうことよ? 自分の妻が大変なことになっているっていうのよ。どうしてそんなに冷静でいられるの?」
「まあまあ、そんなに怒るなよ」
「これが怒らずにいられるっていうわけ?」
 そう詰め寄った私に。
「分かった、今日は一日涼子の好きなようにしていいからさ」
 夫はそう答えた。

 好きなようにって…。
 いきなりそんなこと言われても、何かある訳じゃない。
 とりあえず考えてみることにする。ふと、壁に掛かっている時計を見上げた。
「あ、もうすぐ12時じゃない! スーパーの朝の特売が終わっちゃう!」
 あわてて出かける準備を済ませると、夫と一緒に近くのスーパーへ。今週分の食材をどっさりと買いこむ。
 冷蔵庫に食材を詰め込みながら。再び時計を見上げると、もう13時過ぎ。
 いけない、いけない。こんなことをしている場合じゃなかった。
 でも、なかなかやりたいことが浮かばない。
 好きなようにしてって言われると逆に難しいのよね…。
 とりあえず空いた時間で部屋に掃除機をかけてみる。
 部屋の隅の本棚には、昔好きでよく読んでいた本がほこりをかぶっていた。
「あ、懐かしいな、これ」
 その中の1冊を手にとって読む。
 知っている話でも、一度読み始めると続きが読みたくなるもので。そのまま一気に3冊も読み切ってしまった。
 窓から差す陽がしだいに傾いていく。
「あ、いけない! そろそろ、夕ご飯の準備しないと」
 急いでキッチンに立って夕食の準備。料理好きな私にはなかなか楽しい時間。これがいい気分転換になるのだ。
 暖かい料理も暖かいまま盛りつけが終わって。夫と二人で夕ご飯。
「へぇ、今日はなかなか豪華だね」
 その一言が嬉しい。
「で、今日は好きなことできたの?」
 はっ…。そうだった。
「それがね、なかなか思いつかなくて…」
「ははは、いいって。そんなに深刻にならなくても大丈夫だよ。明日になっても、何ともなってないかもしれないし」
 うなだれている私に夫がそう言葉をかけてくれた。でも、なかなかそこまで気楽にはなれない…。
 気晴らしにテレビをつける。何気なくつけたテレビには、好きな俳優さんが。
「あ、このドラマ見たかったのよね」
 ドラマが終わって気付けば、もう夜の10時をまわっていた。
 …結局、いつもの休日と一緒だったなぁ。
 お風呂に入って、髪を乾かす。
 はぁ…。
「大丈夫だって」
 夫にそう慰められながら、私は布団に入った。

 翌日の朝。
「そうですか」
 相変わらず無表情なお医者さん。
「見せてもらっていいですか」
「はい…」
 私は、ゆっくりと目深にかぶっていた帽子をぬいだ。
「ほう、見事にハゲましたね」
 私の頭にはもはや1本の髪の毛も残ってはいなかった。
 顔から火がでるほど恥ずかしかった。悲しかった。もうこのまま死んでしまいたい気分だった。
「でも心配いりませんよ」
 でも、お医者さんはそう言って、初めて眼鏡の奥で軽く笑ったようだった。
「今はこんなものがありましてね」
 そう言ってお医者さんが取り出したのは、どう見てもただのカツラ。
「こう見えても、ただのカツラじゃないんですよ」
 お医者さんは説明を続ける。
「これは数年前に発見されたという生物からできているんです。見た目はカツラにそっくりですけど。頭に着けると、すぐに頭皮と一体化してとれなくなります。頭皮から栄養をもらって髪の毛に見える部分がのびていきます。だから、美容院でも普通の髪の毛と見分けはつかないですよ。これは昨日いただいたあなたの髪の毛から培養して作っておいたものですから、誰にも気付かれないと思いますよ」
 私は唖然としたままお医者さんの説明を聞いていた。
「実は5年くらい前から、あなたのように突然ハゲる病気が流行っているんですけど。ちょうどその少し前にこの生物が発見されていたおかげで、ほとんど社会問題にならなかったんです。今でも知らない人、多いんじゃないですかね。ここだけの話、このあたりにもあなたと同じ病気にかかっている人はたくさんいるんですよ。いやぁ、天の采配というのは見事なものですね」
 そう言ってお医者さんは笑った。
「2、3時間で完全にくっつきます。今は保険もききますから」
 もう私に選択の余地はなかった。
 真新しい「髪の毛」を頭につけ、私は家路を急いだ。

 それからもう2年がたつ。
 髪のことは夫以外の誰にも気付かれていない。私が黙っていたら夫にすら気付かれずに済ませることも可能だっただろう。
 この街にも、そうやって何気ない顔をして過ごしている人がたくさんいるに違いない。
 つい最近、新しいニュースが入った。
 例の突然ハゲる病気について。その病原菌をばらまいているのは、何とあのカツラに似た生物だというのだ。彼らはそうやってまんまと自分たちが寄生する場所を作り出していたというわけだ。
 でも、突然ハゲる病気にかかってしまった人に、もはやあの生物から作ったカツラは欠かせない。世の中にあの生物を身に付けている人の数も知れない。
 天の采配とは皮肉なものである。
 さて。
 人類はこれからどうしたらいいのだろう?
 私に答は見えない。

- 完 -