人の違い

 人間は2種類しか存在しない。男性と女性である。
 これには、心の性別やジェンダー問題的な話は一切含まない。単に染色体によって決まる、生物学的な性別である。(実際には、もっと複雑な話になるのであるが、ここではあえて単純化しておく)
 地球上の生物に性別というものが誕生したのは、遙か遙か昔である(少なくとも時期の確認が難しいくらい太古の昔である)。生物史を見ると、人間(人類)の誕生は、性別の誕生とは全然比べものにならないくらい新しい。そしてその後、長い年月をかけて、人種、民族、肌の色、母語などといった違いが生じていったのである。
 だとするならば、人間という生物の中における最も大きな差異は(人間だけの話ではないが)、男女の差異であると言えるのではないだろうか。これに比べれば、人種、民族、肌の色、母語などの違いは、最近になって生じた、ごくごく些末な事柄に過ぎない。
 生物学的に人間を見れば、このような結論になる。
 さあ、あなたはこの結論を素直に受け入れられるだろうか?
 もし、このような意見に対して何らかの違和感を感じるのだとすれば、それはなぜだろうか。男女の差異よりも、他にもっと大きな差異があると感じているのだろうか。
 例えば、現代日本において、男女共に同じコミュニティーに所属しているということは、まま存在する。コミュニティーとは、ある種の共同体である。
 コミュニティーには、いろいろな形のものがある。例としては、住んでいる地方・地域、年代・世代、信教、所属する会社・学校、サークル、同僚・友達、家族などがあげられるが、他にも多くの形のコミュニティーが存在している。人は、一つのコミュニティーにだけ所属しているということは極めてまれで、同時に複数のコミュニティーに所属していることが多い。
 コミュニティーは、その内部に価値観を共有する。そのため、コミュニティーの内と外を見た時に、そこには価値観を基準とした何らかの違いが存在しうる。この違いを境界線として、そのコミュニティーが定義されていると言ってもよい。
 しかし、これらのコミュニティーの間に存在するのは、価値観の違いであり、これは社会学的な違いとも言える。そして、それは生物学的な違いではない。
 結局、そのコミュニティーの中においても、生物学的に最も大きな差異は男女の差異なのである。つまり、コミュニティーとは、価値観を共有しつつも、根源的にその内部に巨大な差異を抱えている(可能性が高い)のである。
 ならば、あなたがコミュニティーの中で異性と仲良くできる、または、仲良くしようと思えるのであれば、少なくとも、そのコミュニティーの中のどんな人とも仲良くできる(仲良くしようと思える)のではないだろうか。そしてそれは、たとえコミュニティーの境界線を越えても可能なのだ。
 繰り返す。人種、民族、肌の色、母語などの違いは、ごくごく些末な事柄に過ぎないのである。